あらすじ
どうして、「あ行」から何時も調査するのか?友人から源を問われて、自らの思考を探る。普通は違うのかい?質問に質問で返答しても申し訳ない。わたしの中での当たり前とはなんなのだろうか。「あ」は発音のはじめである。しかし、よくよく考えるならば、この思考自体がおかしな事だと気付く。センチメンタリズムに語れども、わたしの知能指数を指し示している。ここでの友人の質問の方が当たり前なのかも知れないと考えた。自らの過ちに気付いたのである。わたしが調べたいものは本当に「あ行」なのか。そんなことはない。順を追ってくだってゆき、やがて見たい物に辿り着く。この遣り方では、「馬鹿野郎」という動画に辿り着くまでに相当時間が掛かる。もっと気楽に考えればいいじゃないか。アルゴリズムはそうではない。迎合的な思考回路を併せ持つ彼等の生き様は多忙だ。センチメンタルを必要とはして居ない。わたしは、六法を読む時にも同じ調べ方をしているのだろうか。いいや、していない。では余暇を楽しむのに、決まった時間の中から選別を選択された時、わたしは、「あ行」から幼稚にゆっくりと時間を掛けて選ぶのか。途方もなく、稚拙で惨めでエゴが其処には潜んでいるではないか。「あ」とはなんなのか。それを考えるには途方もない時間が併合的にかかり、其処には人間の素晴らしさは入らない。