あらすじ

それは、時速百キロを優に超える、逃げも隠れも断じて不可能な高速移動密閉空間にて発生した。 ある者はその心理状況を利用して計算高い捕食者となり、ある者は自らに悪意の矛先を向けられぬよう頑なに沈黙を守り、ある者は厳格までに全うすべく職務を優先し、ある者は無力感に打ちひしがれただ祈り、ある者は我が身に降りかかる突如の脅威に抵抗もできず絶望した。そして、ある者は葛藤のすえ行動を起こし、遂には夢とだえた。 いくらでも抗じる策はあっただろう。つまり、誰もが正気を失っていたのだ。 当時、現場に防犯監視カメラが備わっていなかった、その運用体制が悔やまれる。 判決の結果、殺人被告事件としては極めて軽い懲役七年の実刑が被告人に下された。殺害にまで至る経緯の詳細を求められた、目撃者ならびに直接事件に関わる当事者の証言が確固たる状況証拠として刑事裁判にて認められたからだ。 遺族は上告しなかった。被告人側の弁護士が、検察側の求刑を呑んだのみならず、被告当人の心身衰弱した様子から見ても、もとより争うつもりが無かったらしい。 必然性をもって成立してしまった他の要因までも付属されてしまえば、納得いかなくとも、やむを得ない。被害者が所有するスマートフォンに残る映像と音声が、事件の発端を皮肉にも克明にまで物語っていたとなれば反論もできぬ。であるからこその検察側からの適切な求刑である。裁判員も異論無し。誰が目にしても、もっとも有力となる証拠であった。 二十歳という短い生涯に幕を下ろした被害者の男性は、被告人の持つ鈍器によって右目を潰され、左耳の鼓膜を破られ、頭部への執拗な殴打という残虐な仕打ちを受けて、抵抗も出来ずに命を絶たれた。 その様まで、床に落ちたスマートフォンのカメラ機能が鮮明にとらえていたのだ。動画が再生され、被害者男性の口から最後に放たれた言葉が法廷の場に響いた直後、傍聴席からは哭き咽ぶ声が洩れたという。 被害者男性の名は正木英雄。遺族曰く、正木英雄は美容師を志す専門学校生で、幼き頃より抱く将来への夢と希望を糧にし仲間と共に努力邁進していたそうだ。 切実たる克己心が周囲の人間を勇気付かせる、そんな性質を保有していたらしい英雄は、東京の凡庸な家庭環境にて生を受けた。 長年の不妊治療の末に授かった一人息子の英雄を、正木夫妻は宝として絶えぬ愛情を注いだ。切迫早産であったがゆえに、体重二千グラム足らずで産まれて間も無く保育器に迎えられる。泣き声は細く、身体は痩せ細っていた。生後半年経過しても母乳の摂取が少なかったがために成長速度は遅く病弱体質で、ことあるごとに高熱を発して度々入院した。 それでも母は強し。決して心折れず、不眠不休で自身の体力が衰弱しようが、懸命に尽くした。父は職場の役職を投げる覚悟で育児休暇を取得し、かいがいしく妻の補佐を務める今時珍しい顧慮ある男だった。 そのかいあって、英雄は一定水準の健康体を手に入れ、両親からの温かい愛情を一身に受けながらすくすくと成長していった。 次に産まれた妹にも愛情深く優しく尽くした。 しかし、小学校ではイジメという不遇を受けて不登校気味となりそれでも屈せずに難をしのぎ、中学時代は以前より興味があった野球部にて心身を鍛え、高校時代は多くの友人関係構築に加えて初めての恋人もできた。 美容専門学校に入学しても引き続き関係良好とする恋人との将来を計画的に練り、アルバイトに精を出して貯金をも積んでいたらしい。 美容師資格を取得後、就職したあかつきにはまず初めに両親へ感謝を記し、髪に鋏を入れようとまで誓っていたのだ。正木英雄は誠実な人柄であった、と話す。 したがって、裁判にてどのような真実があきからになろうが、世間一般の民衆が事件性に対して判決が適切だと受け入れようが、些細な社会時事として取り沙汰もされずに忘却の彼方に弔われようが、遺族から被告人への激しい憤怒と執着的怨嗟の念がおさまるはずもなかったのだ。

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カクヨム2023/08/24
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