Synopsis
私は、この世界で起きることをひとつ残らず見ている者です。戦場で縄が切られる音も、宮廷で銀の匙が置かれる音も、山奥の村で鍋が煮える音も、同じ夜に、同じだけ聞こえています。見て、聞いて、帳面に書き留める。それが私の役目です。
名前は、ありません。それでは呼びにくいでしょうから、港の外れにある好きな宿の名から借りて、イサナと名乗っておきます。古い言葉で、鯨のことです。
その帳面の最後の頁に、ある晩、見たことのない文字が浮かびました。はじめは読めませんでしたが、紙の向こうで誰かがこちらを覗いている、その気配だけははっきりと伝わってきました。どういう仕組みなのかは、すべてを見ているはずの私にも、わかりません。けれど、向こうに読む人がいるのなら、書いてみようと思ったのです。
それから毎晩、浮かんでくる文字を眺めているうちに、そちらの言葉が少しずつわかるようになりました。ですからこの帳面は、そちらの言葉に直して書いています。料理や道具の名も、なるべくそちらで通じる名に置き換えました。たとえば私が「豚汁」と書いたら、こちらで豚汁にいちばん近いもののことだと思ってください。似ているだけで、まったく同じではないかもしれません。どうしても置き換えられないものだけ、こちらの名のままにしてあります。
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