Synopsis

真夏の大阪。外部の熱と喧騒から完全に隔離された涼しく静かな書斎で、在野の歴史民俗学者・九重慧(ここのえ けい)は、かつてない深い満足感に浸っていた。  彼が愛するのは「静寂」と「客観的史実」のみ。些末な気遣いや感情という“非合理なもの”を彼の日々に押し付けていた同棲相手の女性を、彼は数日前に理詰めで退け、己の領域から完全に追放したばかりだった。  あらゆるしがらみを断ち切り、彼がたった一人で向き合うのは、大阪府茨木市(千提寺・音羽地区)の旧家から持ち込まれた江戸中期の『過去帳(死者の名簿)』。  そこはかつて、厳しい弾圧の下で生き抜いた「隠れキリシタンの里」であった。  素人の目には、単なる古びた年月日の羅列にしか見えない退屈な帳簿。だが九重の眼力は、墨の微細な掠れと点の中へ、役人を欺く恐るべき【暗号の法則】が仕組まれていることを見抜く。  二百五十年前の指導者たちは、死と隣り合わせの極限状態の中、いかにして幕府の追及を逃れたのか。  生き残るために彼らが採ったのは、感情や同情を一切排除し、冷酷なまでに理にかなった『掟』と『偽装工作』を構築することだったに違いない。  感情に流されず、煩わしい他者を切り捨てた自分の生き方こそ、この過酷な歴史においても『正しい』のだ。  己の高慢さを歴史に肯定されたと確信し、九重は取り憑かれたように暗号解読へと没頭していく。  だが、三日三晩の不眠の果て、歴史の厚い防壁を打ち破り、白紙の上に立ち現れた「隠された言葉(オラショ)」の正体とは、一体何だったのか。

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Kakuyomu
Kakuyomu07/31/2026
  • Current沈黙のオラショ