Synopsis

包丁を置いた。 五年間握り続けた、私の右手だけが覚えている重さ。 宮廷料理局の厨房を出るとき、振り返らなかった。 振り返れば、きっと足が止まる。 罪状は「王太子の食事に毒を盛った」。 身に覚えはない。 けれど、公爵令嬢の涙と、料理局長の証言と、王太子の沈黙が、私の言葉より重かった。 (……毒なんて、盛っていない。) 私が作ったのは、王太子が「生まれて初めて美味しい」と言ってくれた、あのスープだ。 あの日から、局長の目が変わったことを覚えている。 追放先は、国境の向こう。 人間の領域を越えた、魔族の土地。 荷物は着替えと、母の形見の包丁が一本。 それだけで充分だった。 料理人に必要なものは、腕と舌と、目の前の素材だけ。 国境の橋を渡り終えたとき、風の匂いが変わった。 火山灰と、夜の花と、見知らぬ香辛料の香り。 行く宛てはない。 けれど、腹は減る。 自分のためでもいい。何か作ろう。 道端で摘んだ薬草と、干し肉の端切れ。 小さな焚き火で、簡素なスープを煮た。 湯気が立ちのぼる。 それを——じっと見ている、赤い瞳があった。

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Syosetu wo Yomou
Syosetu wo Yomou03/19/2026
  • Current追放令嬢の賄い飯が美味すぎて魔王陛下が厨房に住みつきました