Synopsis

十年間、一度も泣いたことがない。 それが辺境伯夫人カトレアの、たった一つの矜持だった。 初夜に夫から告げられたのは、愛の言葉ではなかった。 お飾りの妻でいろ。 その一言を飲み込んだ日から、彼女は感情を殺した。 誰も教えてくれない帳簿を独学で読み解き、崩壊寸前の兵站を一人で立て直した。 食事は執務机の上で冷めたスープを啜り、寝床は北向きの狭い資料室。 夫が想い人に貢いだ金の出処を、彼女自身が毎月承認印を押して送り出していた。 それでも構わないと思っていた。 愛されない代わりに、領民の命を繋ぐ歯車であり続けることが、自分の存在意義だと信じていたから。 十年目のある夜、夫が突然言った。 これからは君を愛そうと思う。 想い人に捨てられた男の、手のひらを返した甘言だった。 カトレアは微笑んだ。 完璧な、何の感情もない微笑みで。 そして引き出しの奥に手を伸ばした。 そこには十年かけて積み上げた、ある書類の束が眠っている。 彼女はそれを、誰にも気づかれずに準備していた。 王都には、長年にわたり薬用の茶葉を届け続けてくれた一人の医師がいる。 彼が選ぶ缶の色が、なぜかいつも彼女の瞳と同じ色をしていることに、カトレアはまだ気づいていない。 氷の館を出た女が手にしているものは、復讐か、解放か。 その答えは、彼女自身にもわからない。

Serialization Info

Web Novel

Service languages
Syosetu wo Yomou
Syosetu wo Yomou03/04/2026
  • Current今更、あの時の言葉を取り消すことなどできません。