Synopsis

みんなに訊きたい。 なにか分かったかな。 わたしはいまだになんにも分からない。 分かった気がますます、しなくなる一方である。 この歳である わたしもそれなりの知識見聞は得ているだろう。 生きている以上、なおまだ日々すこしづつは増えていっているはずだ だがいくら知識を増やしても、どの分野においても知りたいことの肝心かなめのところに到ると専門家たちも自説に確信はもっていない。ほとんどの説は現象の説明、謂わば仮説にすぎない。それ以上わからないのであれば、われわれとしてもいくら不満でもいたしかたない。 つまり万象すべて人間の便宜上の解釈に思える。 人生のことなどについてもやはり万説、方便に聞こえてならない。  では、私がいったい何を分からながっているのかの一例を、日常生活のありふれた出来事のなかでお話させていただきます。 ついさっき見た光景です。 駐車場から家までのアスファルトの通路のまんなかにカマキリがいた。時折だが車も通る道である。  じっとしている。珍しいことではない。夏場にはしょっちゅう道に出てくる。 いつも、胴体のあたりをつまんで、その辺の草むらに移してやる。 でもこれは動かない。よく見れば足が一本もげ体が傾いていて、もう全体に力がなくなっている。ながくないだろう。 さて、これをどうするか。 人間なら迷うことはないが。 どうするか。 この状況を私はむずかしがるわけである。 どうしてやるのが、これのためか。 元気なのと同じく草むらに置く、が常識だろうがほんとうにそれが、これのための最善なのか。 小刻みに体を震わせている。 もう、ながくはないとはいえ、あと何時間かは痛みに耐え、辛い思いをしなければならないのだ。いや、もしかしたら、もっとずっと長いかもしれない。 いますぐ楽にしてやる方法はある。 これが蚊や油虫、あるいはムカデの場合は考えるまえにすぐさま楽にしてやっている。 でも、しかし・・・・。 このカマキリの例もただの一例に過ぎない。無意識のうちに目にしないように、気に留めないように自分に言い聞かせて日々過ごしているだけなのである。  いくら考えても私には正解は分からない。  ついでに言えば、そうやって、無残に死んでいく生き物たちを手から離すとき、いつも声をかけてやるのだが、 「つぎに生まれてくるときは人間に生まれて来いよ」と、つい言ってしまいそうになり、そこでまた、私はより一層むずかしい気分に陥ることになる。  無論、生れ変りなぞ、ありはしないと断定さえもできない、人間にはとうてい分からないことがらである。  ただ、少し長く人間をやっている人間ならだれにでも同感してもらえると思うのだが、この世にはなにかと気休めは要る。 問題は「人間に生まれて来いよ」だが、これがまったくもって人間以外の生き物たちに自信をもってお勧めすることができないことに思い至りいつも閉口してしまう。  これも人間を長くやっている人間なら誰にも同感してもらえるはずだが、古今東西の人間社会の無残、理不尽を思えば 「いや、やっぱり人間はやめとけ」と言い直したくなるのである。

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Kakuyomu
Kakuyomu10/12/2016
  • Current論理の果て